
宇喜多秀家が豊臣秀吉の許しを得て岡山に城を作り、岡山市の近世はここから始まることとなりました。
その後、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、八丈島に流されました。戦勝側である小早川秀秋が
3国51万石を領有したが2年で後嗣なく死去となったのです。
1603年、忠継・忠雄のあとに岡山に31万5千石で入部した池田輝政の孫の池田光政が岡山藩の基礎を
築きあげました。
備中は歴史上の人物である小早川氏改易のあと、一国を管轄する藩が置かれず幕領と
大名領・旗本領が錯綜しました。交代寄合の山崎家の成羽陣屋、交代寄合の戸川家の撫川陣屋、
戸川家は旗本としても早島・帯江・妹尾・中庄にそれぞれ陣屋を構えました。
倉敷に置かれた幕府陣屋は備中のみならず周辺諸国の幕領も管轄統治し、
その繁栄は岡山以上とも言われたようです。
戊辰戦争の際、備中松山藩は当時の藩主である板倉勝静が老中職にあったため朝敵となり岡山藩などの攻撃を受けました。